6th AL「WASHING」(1991)

解離性同一性障害の末路

1991年という年はとんでもない年で、多くの方が語っているように、名盤と呼ばれる作品が大豊作だった年であります。あのアーティスト、このアーティストが次々と傑作を世に送り出し、毎週のように塗り変えられていくヒットチャートの上位では、今週はロック、今週はダンス、今週はポップ、今週はヒップホップと、目まぐるしいほどに新しい音楽がラジオやテレビやレコードショップで流れ続けました。というのは、洋楽での話。この'91年のビッグバンが日本に波及してくるのは、2年後の'93年からになります。そう、ナガマリでいうと、あの作品のことです。

どんなアーティストにも過渡期というのは必ず訪れるもので、そこを避けて通ることはどうにもできないもので。人気を過熱させていくアイドル性、表現の欲求を満たしていくアーティスト性。この2つは水と油で、絶対に混じり合うことがない。そんなニッチモサッチモいかない状況を、そのまま作品にしたのが6枚目のスタジオアルバム『WASHING』ではないかと。CDジャケットがそれを端的に表しています。真理子さんの後ろにいるのは、自分の中のもう一人の自分なのか、ついて回る世間からのパブリックイメージなのか、見る人によってその解釈はどちらにも転がります。そして、真理子さんが洗い流したかったのは、どちらなのか。

と、言いながら、アルバムの内容が悪いかというと、これが結構なロック・アルバムになっておりまして、"Keep On Running" から "私の中の勇気" までの流れは、それこそ当時のバンドブームに比肩するサウンドが展開されています。打って変わり、"こんな人生もありよ" から "夏のはじまり" は、アイドル的なポップソングとなり、その甘ったるい世界を打ち破るかのように "Say Hello" のどす黒いスクリームが渦を巻いていく。そして、その先には "ピンクの魚よ" と "揺れているのは" の崇高な世界が拡がる。CDジャケットがアーティストの二面性を表しているように、アルバムの内容も引き裂かれそうな程の二面性にあふれていたりするのです。この二項対立の構造は、先行シングルで発売された "ハートをWASH!" と、カップリングの ""OK!"" にも表れています。そして、「ジキル博士とハイド氏」の結末と同じように、金子さんプロデュースのスタジオアルバムは、この作品がラストとなってしまいます。